歴代最強の逃げ馬はどの馬でしょうか。
競馬ファンならだれもが気にするであろう、最強馬の格付けを当記事では逃げ馬に限定して発表します。
いつの時代も先頭に立ってターフを駆け抜けた逃げ馬は、レースを引っ張る存在としていつも目立っています。
過去の逃げ馬のなかでも最も強い逃げ馬をランキング形式でまとめました。
ぜひ、ご覧ください。
1.逃げ馬の評価基準
今回、当記事で逃げ馬を選定するにあたって評価したポイントは
- 獲得したG1数
- 戦ってきた相手関係
- 持ち時計
これらを基に、ランキング付けしました。
2.歴代の最強逃げ馬を発表!
日本競馬は100年以上の歴史がありますが、その中でも特に強かった逃げ馬を紹介します!
1位:キタサンブラック
1位は、北島三郎さんが所有するキタサンブラックです。
キタサンブラックは2014年にデビューし、2015年の菊花賞を手にしました。
春のクラシック路線にも挑みましたが、このときは同期のドゥラメンテが異次元の追い込み競馬で二冠を手にし、決して注目度は高くありませんでした。
ところが、ドゥラメンテが両前肢骨折のために休養を余儀なくされると、最後の一冠である菊花賞を手にし、その年の有馬記念でも3着に健闘しました。
キタサンブラックの素質が開花したのは古馬になってからです。
最終的にG1タイトルを7つ手にしたキタサンブラックは、それまで獲得賞金額でトップだったテイエムオペラオーの記録を塗り替えました。
キタサンブラックが得意とする競馬スタイルは、その無尽蔵ともよべるスタミナを活かした逃げです。
ハナに立つと、いかなる距離でも衰えを感じさせない競馬で幾多のビッグレースを勝利します。
また、菊花賞や不良馬場の天皇賞(秋)では後方競馬で最後の直線、鋭く脚を伸ばしてリアルスティールやサトノクラウンに先着しているように、差し馬としても一級品の末脚を持ってました。
キタサンブラックは5歳の有馬記念で有終の美を飾り、引退。その後は種牡馬入りしました。
そして、初年度産駒のイクイノックスが東スポ杯2歳ステークスで重賞を制し、早くも種牡馬として結果を残しています。
キタサンブラックが巻き起こした祭りは産駒にも引き継がれることでしょう。
2位:サイレンススズカ
逃げ馬の代名詞的存在であるサイレンススズカは、意外にもクラシックとは縁がありませんでした。
もともと逃げて競馬を行っていましたが、ペース配分をうまくつかむことができずに凡走することが多々あったのです。
しかし、その年の暮れに挑んだ香港国際Cにて、手綱を握った武豊騎手とのコンビ相性は抜群でした。
香港国際競走こそ敗れはしたものの、翌年のレースから息を入れることを学んだサイレンススズカは瞬く間に連勝します。
サイレンススズカのベストバウトともいえる金鯱賞においては1000mを58秒1というスピードで通過し、短距離レースに匹敵するハイペースで2000mの距離を通過しました。
勝ちタイムは1分57秒8のレコードで、2着のミッドナイトベットに1.8秒差の完勝でした。
視覚的にも強い競馬を行ったサイレンススズカは続く宝塚記念においても1000mを58秒6で通過し、ステイゴールドとエアグルーヴの猛追を凌いで自身初のG1タイトルを手にしました。
さらには、秋の初戦として選択した毎日王冠においても、当時無敗の外国馬であったグラスワンダーとエルコンドルパサーに先着し、競馬史上もっとも強い逃げ馬として君臨します。
毎日王冠を制したサイレンススズカは秋の大舞台である天皇賞(秋)に駒を進めます。
ファンの期待はサイレンススズカがどれほどの大逃げを仕掛けるのか、そこだけでした。
単勝支持率61%、単勝オッズ1.2倍に支持されたサイレンススズカは天皇賞(秋)においても大逃げを仕掛け、1000mを57秒4の時計で通過します。
ところが、第3コーナー、ちょうど大ケヤキを過ぎたあたりで急にペースを落としてしまいます。
レース中に左前肢を骨折したのです。
これまでの逃亡劇で脚は限界だったのかもしれません。そのまま競走中止となってしまいました。
そして、その日に競走能力喪失し、予後不良となってしまったのです。
天皇賞(秋)におけるサイレンススズカの競走中止は、競馬界に衝撃をもたらし、勝ったオフサイドトラップよりも、故障したサイレンススズカに注目が集まるほどでした。
サイレンススズカの死後、毎日王冠で戦ったグラスワンダーがのちにグランプリレースを三連覇し、エルコンドルパサーが凱旋門賞で2着に入線すると、相対的にサイレンススズカの評価も高まりました。
結果的には産駒を残すことなくこの世を去ってしまったサイレンススズカ。
もし、天皇賞(秋)を無事に走破することができたら、もっともっと競馬界で活躍していたことでしょう。
3位:カブラヤオー
カブラヤオーは1972年に生誕し、1975年の年度代表馬に選ばれた二冠馬です。
カブラヤオーは非常に憶病な性格らしく、競り合いに弱い馬でした。
しかしながら、非凡な才能を見抜いていた陣営はなんとしてもカブラヤオーがフルにパフォーマンスを発揮できる競馬を確立させようとしました。
そのスタイルが「ハイペースの大逃げ」です。
先ほど紹介したサイレンススズカにも通じるものがありますが、カブラヤオーは自身の心配能力の高さを活かしたハイペース競馬で競馬界を席巻します。
クラシック初戦に挑んだ皐月賞では1000mを58秒9で通過し、そのままゴールしてしまいます。
皐月賞から2F伸びたダービーにおいては1000mを58秒6、皐月賞よりも速いタイムで駆け上がります。
だれもが道中で失速するだろうと思ったのですが、カブラヤオーのペースは落ちません。
そのまま後続を振り切り二冠を手にしたのです。
シンザン以来の三冠馬の誕生に期待がかかりましたが、カブラヤオーはその後屈腱炎を発症し、菊花賞出走を断念します。
屈腱炎を治療し、古馬になってからはオープンレースでも結果を残しましたが、ふたたび屈腱炎を発症したことで競走馬を引退、種牡馬入りを果たしました。
4位:テスコガビー
いまだに最強牝馬と評価する人もいるテスコガビーは1975年の桜花賞を大差で勝利した名牝です。
テスコガビーはデビュー前から馬体がよく、関係者にとっては牡馬にも引けを取らない馬と評価されていました。
デビュー戦を7馬身差で勝利し、翌年の京成杯まで怒涛の4連勝を飾ったことでいよいよ期待は高まります。
テスコガビーがはじめて黒星を飾ったのは4歳(現在の3歳)のときに挑んだ共同通信杯の前身である東京4歳ステークスです。
テスコガビーの対抗馬として出馬したのは先ほど紹介したカブラヤオーです。
どちらも逃げ馬でなおかつスピードタイプの馬ということで、関係者も競馬ファンも大いに注目しました。
レースはカブラヤオーがハナを切り、テスコガビーはその後ろで競馬をします。
直線でカブラヤオーに猛追を仕掛けますが、わずかクビ差届かずに2着に入線しました。
初の黒星を飾りましたが、牡馬相手にこれほど強い競馬ができ、しかも重馬場の舞台で力のある走りを見せたテスコガビーは負けて強しの競馬を行ったのです。
その後、阪神4歳牝馬ステークスをレコードで勝利した牝馬クラシック初戦である桜花賞に駒を進めます。
これまでの強い競馬から、単勝支持率は72%、単勝オッズ1.1倍の圧倒的支持を受けて桜花賞に挑んだテスコガビーの競馬は競馬関係者の期待以上のものでした。
スタート直後から後続を置き去りにする競馬でポテンシャルをフルに発揮したテスコガビーは、直線に入っても後続をぐんぐんと突き放します。
完全にセーフティーリードに入ってゴールしたテスコガビーと2着馬の差は「大差」でした。
大差とは、10馬身差以上の差がついたときに表記されます。1600mという短い距離で圧倒的な大差でゴールした馬はテスコガビーを最後、21世紀に入った現在も現れていません。
その後、クラシック二冠目となるオークスも8馬身差の逃げ切りで勝利をおさめ、世代最強牝馬となりました。
しかしながら、オークスまで輝かしい走りを見せたテスコガビーは、翌年死去してしまいます。
それまで見られなかったスピード競馬で蓄積疲労を重ねていたテスコガビーはオークスを制した年の秋、重度の外傷を負ってしまいました。
なんとか治療を施したものの、翌年には脚を怪我してしまいます。
こちらも完治しましたが、ある調教トレーニングの際、前のめりに倒れたテスコガビーは調教中に心臓麻痺を患い、そのまま死去してしまったのです。
50年以上もまえに競馬界を盛り上げたテスコガビーは、わずか5歳で死去したため、産駒はいません。
もし、テスコガビーが無事に仔を出産していたら、もっと違った未来が待っていたかもしれないです。
5位:マルゼンスキー
生涯成績8戦8勝、「スーパーカー」の異名で競馬界を駆け抜けたマルゼンスキーは持込馬としての価値を高めた名馬です。
イギリスのクラシック三冠を制したニジンスキーから受け継いだポテンシャルはデビュー時からフルに発揮されました。
デビュー戦で挑んだ中山の芝1200mを大差勝ちすると、続くいちょう特別も9馬身差の勝ちっぷり。
デビュー3戦目の府中3歳ステークスこそヒシスピードのハナ差でしたが、この3戦だけでも競馬界にとんでもない馬が現れたことは明白でした。
そして、現在の朝日杯FSにあたる、朝日杯3歳ステークスに挑む際、デビューから快進撃を続けたためにほかの陣営が
「自分の厩舎の馬ではマルゼンスキーに勝てない」
「わざわざ負けに行くことはない」
と判断され、わずか6頭でレースが開催されました。
ここでもマルゼンスキーはハナを奪う競馬で挑みます。前走でハナ差まで詰め寄られたヒシスピードに影すら踏ませないハイスピードでゴール板を通過しました。
2着のヒシスピードとのタイム差は2.2秒で13馬身差の圧勝でした。
とんでもない勝ちっぷりでデビュー年を彩ったマルゼンスキーでしたが、当時は持込馬ゆえ、クラシックレースに出走することができませんでした。
古馬になってからはオープンを中心に勝ち星を重ねますが、この年の夏に軽度の屈腱炎を発症します。
幸い大事には至らず、暮れの有馬記念に向けて調整されましたが、その調教の際、屈腱炎が再発してしまいます。
この年の有馬記念はトウショウボーイ・テンポイント・グリーングラス、後年TTGと称される馬との対決が期待されていました。
しかしながら、持込馬のマルゼンスキーは宝塚記念と有馬記念以外に出走できるレースがなかったことから、屈腱炎の再発のために引退することが決まりました。
マルゼンスキーは引退後、種牡馬入りを果たします。
現役時代とは打って変わって、種牡馬としては長く活躍しました。
代表産駒はダービーを制したサクラチヨノオーや菊花賞を手にしたレオダーバン、ホリスキーです。
父マルゼンスキーが挑むことが叶わなかったクラシックレースを、産駒がつかみとりました。
母の父としても優秀で、ライスシャワーやウイニングチケット、スペシャルウィークを輩出しました。
6位:ミホノブルボン
ミホノブルボンは無敗で皐月賞とダービーを手にした逃げ馬です。
当時栗東トレセンに設置された坂路の価値を競馬界に浸透させたことで、「坂路の申し子」ともよばれていました。
坂路で鍛えられたミホノブルボンはデビュー前から筋肉の締まった体つきをしていました。
新馬戦をレコードで勝利すると、その年の朝日杯3歳ステークスもあっさり完勝してしまいます。
クラシック年齢となった4歳(現在の3歳)初戦にスプリングステークスを選択しますが、同期のサクラバクシンオーやライスシャワーに7馬身以上の差をつけて完勝してしまいます。
無敗で挑んだ皐月賞において、ミホノブルボンは自分のペースで坦々と走りましたが、後続はミホノブルボンについていくのがやっとという競馬であっさり一冠を手にしました。
ダービーにおいても逃げの競馬で走り、ステイヤー色の強かったライスシャワー以外の馬を完全に突き放して無敗の二冠馬の称号を手にします。
なお、このダービーでは最後の直線までミホノブルボンは馬なりで走っていたと、主戦を務めていた小島貞博騎手は語っています。
当時秋に開催されていた京都新聞杯も勝利し、シンボリルドルフ以来の無敗の三冠に王手をかけるミホノブルボン。
当然、各陣営もミホノブルボンに対する包囲網を敷きました。
その最有力となったのがステイヤー血統のライスシャワー。そして、キョウエイボーガンです。
キョウエイボーガンも逃げ馬で、前走の京都新聞杯でミホノブルボンと顔合わせをした際、どちらがハナに立つのか注目されていましたが、スタート直後の出遅れのために競り合うことすらできませんでした。
しかし、菊花賞でキョウエイボーガン陣営はなにがなんでもハナに立つことを宣言します。
ミホノブルボンは馬体的にも、血統的にも淀の長距離は決して最良の舞台ではありませんでしたが、無敗の三冠馬に王手をかけた手前、出走しないわけにはいきません。
最後の一冠を賭けた菊花賞。ハナに立ったのはスタートをうまくでたキョウエイボーガンでした。
最初の1000mを59秒7というハイペースで通過し、暴走気味に競馬をするキョウエイボーガン。
そして、キョウエイボーガンのあとに続いたミホノブルボンは久々にハナを切れなかったことが災いし、かかってしまいます。
最後のコーナーで失速するキョウエイボーガンをかわして先頭に立ちましたが、ペース配分が乱されたことで、最後の最後、ライスシャワーに差されてしまい、三冠タイトル、そして自身初の黒星を飾ることとなりました。
敗れたミホノブルボンはその後、ジャパンカップに向けて調整されていましたが、追い切りで右後肢跛行が判明し、そのまま引退することとなりました。
7位:ダイワスカーレット
同期のウオッカと共に、2000年代後半の競馬界をリードした名牝です。
12戦8勝で2着4回、G1タイトル数は4つと、抜群の安定感でウオッカとはまた違ったタイプの馬でした。
ダイワスカーレットが得意とする競馬は逃げ、もしくは先行競馬です。
どんな舞台でも安定した走りは、牡馬混合のG1でも思う存分発揮されました。
ライバルウオッカとの最後の対決となった天皇賞(秋)は初めての府中でしかも半年ぶりの休み明けにも関わらず1000mを58秒7のペースで通過します。
最後の最後、ウオッカやディープスカイといったダービー馬が詰め寄る中、最内から再び脚を伸ばしてウオッカとハナ差の2着に入線する底力を発揮しました。
その後挑んだ有馬記念においても楽にハナを奪うと自分のペースを死守し、最後の直線でも後続を振り切って勝利しています。
牝馬の有馬記念制覇はトウメイ以来で、逃げて有馬記念を制した馬も、ダイワスカーレットのあと、キタサンブラックが勝利するまではいませんでした。
その後もレースプランが組まれていましたが、調教中の脚部不安のため、引退することになります。
抜群の安定感で競走馬を引退しましたが、実は4歳春のレース候補にフェブラリーステークスが組まれていたり、5歳初戦にドバイワールドカップへの出走が検討されていたりと、ダートへの出走プランも組まれていたそうです。
もし出走していたら安定のある走りで勝利していたかもしれませんし、適性違いで大敗していたかもしれません。
8位:サニーブライアン
サニーブライアンは人気薄で1997年の皐月賞とダービーを制した二冠馬です。
皐月賞に挑んだ時点ですでに8戦使われていたサニーブライアンは、11番人気の人気薄でした。
また、主戦を務めた大西直宏騎手もそれまでに勝った重賞は”アラブ”の重賞1つのみで、国内の重賞タイトルは手にしたことがありませんでした。
人馬ともにほとんど注目されない中挑んだ皐月賞では大外からノーマークで先行し、向こう正面から3コーナーにかけて先頭に立つと、人気馬が馬群の中にいたことも幸いし、11番人気ながら皐月賞のタイトルを手にしました。
大西騎手にとっては国内初重賞、それもG1の皐月賞が初重賞タイトルとなりました。
ちなみに、それまで手にしたアラブの重賞は1982年のときのものだったので、実に15年ぶりに重賞の味をかみしめたのです。
この皐月賞でサニーブライアンは一冠を手にしましたが、展開が味方した、あくまで偶然にすぎないという声もありました。
その証拠に、次走に選んだダービーでは皐月賞馬ながらも6番人気の低評価でした。
しかし、大西騎手にとって1番人気には興味がありません。
なによりも、1着が欲しかったのです。
皐月賞がフロック視される中挑んだダービーでは皐月賞同様、大外枠からハナを積極的に狙います。
このダービーにはのちに光速の逃げ馬と語り継がれるサイレンススズカも出走し、ハナを切ろうとしましたが、サニーブライアンと大西騎手の気合を見て控えることになりました。
そして、ハナに立ったサニーブライアンは楽々とスローペースで競馬をします。
人気落ちとはいえ皐月賞馬。ゆったりとした展開をものにしたサニーブライアンは最大限のパフォーマンスで直線入りします。
当然後続も殺到しますが、余力を保ったサニーブライアンを捕らえられた馬はいよいよいませんでした。
現在もフジテレビのめざましテレビで司会を務める三宅正治さんはこのダービーで、
「これはもう、フロックでも、なんでもない!二冠達成!」
と叫びましたが、サニーブライアンに対する最大限の賛美でしょう。
無事に二冠を手にしたサニーブライアンは菊花賞や有馬記念も見据えていましたが、骨折と屈腱炎のために、ダービーを最後に引退することとなりました。
9位:タップダンスシチー
デビューからしばらくは芽が出なかったものの、8歳まで息の長い活躍を見せたタップダンスシチーも競馬界で有名な逃げ馬です。
はじめて手にしたのはチャレンジカップで、デビューから23戦目にしてはじめて重賞タイトルを手にしました。
その年はチャレンジカップを最後に勝ち星をつかむことはできませんでしたが、その年の有馬記念にて、13番人気ながらも向こう正面から先頭に立ち、シンボリクリスエスの2着に入線しました。
この有馬記念からハナで押し切る競馬を覚えたタップダンスシチーは翌年の金鯱賞を勝利すると、その年のジャパンカップにおいても大逃げで後続を置き去りにする競馬で勝利を手にします。
さらには翌年の宝塚記念も制し、G1タイトルを2つ手にしました。
若いころは、名前の通りタップダンスを踊るような歩行でパドックを周回していたため、レース前から体力を消耗していたようです。
しかし、年齢を重ねるにつれ、落ち着きを身に付けたタップダンスシチーはパドックをおだやかに周回し、レースに向けて体力を温存する術を身に付けたようです。
また、タップダンスシチーは瞬発性こそなかったものの、長くトップスピードで走ることができる馬だったため、主戦を務めた佐藤哲三騎手いは、ハナに立ったら自由に競馬をさせていたそうです。
10位:キセキ
キセキは2021年の有馬記念で引退した馬なので、最近の競馬ファンにとってもなじみのある馬でしょう。
主な勝ち鞍は不良馬場で追い込みを決めた菊花賞ですが、古馬になってからは逃げのスタイルで活躍しました。
キセキの逃げがもっとも冴えたのは4歳のジャパンカップです。
ピンときた方もいるかもしれませんが、アーモンドアイがワールドレコードを叩き出したジャパンカップです。
前走の天皇賞(秋)から、逃げの競馬を学習したキセキはここでもハナに立ちます。
しかし、高速馬場だったことを踏まえても1Fのラップ推移が異常でした。
キセキが刻んだ1Fにおけるラップは
12.9 – 10.8 – 12.2 – 12.3 – 11.7 – 11.8 – 11.7 – 11.4 – 11.4 – 11.0 – 11.4 – 12.0
このようになっていて、後半の6Fをよく見ると、下手なスプリンターレースよりも速いラップを刻んでいます。
このジャパンカップにおいては抜群の手ごたえでワードレコードを叩き出したアーモンドアイにスポットが当たりますが、実はキセキも相当無謀なラップを刻みながらも、しっかり脚を伸ばして2着に入線しました。
3着のスワーヴリチャードがキセキの3馬身半差あとに入選していることから、いかにキセキが強い競馬を行ったか分かるでしょう。
結果的には大舞台で結果を残しながらも菊花賞を最後、ついに勝ち星を手にすることはできずに引退しましたが、ジャパンカップのころのキセキを見る限り、過去のどんな逃げ馬にも太刀打ちできるだけの力はあったのは事実です。
まとめ
過去の歴代最強逃げ馬を紹介しました。
抜群の安定感で好走した馬もいれば、大逃げで競馬を盛り上げた逃げ馬もいますし、ハイスピードで勝利を手にした馬もいます。
今回紹介した馬は、生まれる時代が違ったとしてもおそらく大舞台で活躍できたでしょう。
競馬は今後も末永く続きます。
新たな時代を駆け抜ける、強くて個性的な逃げ馬が現れることに期待したいですね。